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2008 07,10 23:10 |
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今日は高槻で「四賢者の会(ただの飲み会です・・・)」と称されるものが夜から行われる。
夜まで何をしようか考えた結果、昨日テレビのニュース番組でやっていた珍しい花を見に京都北山にある府立植物園に行くことにした。 京都の大学に通っていて、寺社仏閣は多くめぐったのだが植物園といった文化教養施設にはあまり行ったことがない。現に植物間も初めてであり、大阪市鶴見区にあるものとあわせると人生で2回目の植物園散策である。 植物園には色とりどりの花が咲いている。今回のお目当ては「双頭蓮」というはすの花である。 突然変異で発生する花で、通常蓮の花は1本の茎に対して1つの話か咲かない。しかしこの双頭蓮は1本の茎に2つの花が咲く珍しい現象が起こっている。きれいな花というものは寿命が短く、5月11日までが見ごろだそうだ。 <双頭蓮(ソウトウレン) 品種:明光蓮> ほんとに珍しい花を見れてよかった。 植物園を後にする。しかし所定の時間までまだまだある。 細菌阪急を使う率が高くなっている。なので一度阪急を撮りに行こうと思う。series500さん助言をいただき、茨木市メインで電車を撮ることにした。一見、同一色に見える阪急の電車ですが、よく見るとところどころ差がある。文字で説明すると時間がかかるのでこの場では割愛させてもらう。 <撮影結果-阪急電鉄in茨木市-> ↑阪急9300系 今回はためし撮り的感じである。逆行という最悪の条件の中、時折太陽が雲の中に入り撮りやすいのか撮りにくいのかよくわからない状況であった。また今度機会があれば、撮りに行きたい。今回撮り忘れた大阪市営地下鉄車両も・・・ ふと時計を見ると17時。集合時間にはなっていないが、早めに現地入りして某魔法学校をすることに。結果はちゃんと組を下げておきました。COMがないと成績が安定しません・・・ 予定では日曜日に昇級するつもりだ~~~ 今日は全体を通してかなり有意義な生活を送ったと思う。 PR |
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2008 07,07 23:30 |
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毎週月曜日は、授業の合間を見つけての「ぶらり旅」 今日は、今出川付近から上賀茂神社まで徒歩で散策を敢行した。 |
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2008 06,24 23:15 |
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昨日に引き続き、今日も「ぶらり旅」に行ってきたさすらい旅人です。
今日は予てより行きたいと思っていた奈良国立博物館で行われている「法隆寺展」に行ってきた。 歴史の好きな人で、人それぞれ好きな時代というものがあると思う。私は世間に多い戦国マニアであるとともに仏像マニアでもある。仏像マニアというと語弊があるので、仏像を干渉するのがすきと述べておく。 今日行った展覧会は非常にいい内容であったと思う。火災で焼失した壁画の修復版が展示されていた。なかなか日ごろ見れるものではなく、大学生800円にしてはかなり得をした感がある。一度皆さんもぜひ行ってみてください。 11時ごろ博物館を出て、東大寺の大仏殿に行くことにした。昨日とは打って変わって今回はちゃんとした準備をしてきた。 東大寺は昨日同様中学以来の参拝である。6月ということもあって多くの学生でにぎわっていた。久々に大仏を見たが、やはり大きさには圧巻だ。見ているときに横の観光客(多分関東圏の方)が「鎌倉と比べ物にならない」と言っていた。そりゃ~当然でしょ。国家の威信をかけて造立したんだから。 <-補足-東大寺大仏> 皆さん「奈良の大仏さま」と呼んでいますが、正式名称は「盧舎那仏(るしゃなぶつ)」という。聖武天皇の頃に疫病が流行り、鎮魂のために建立された。743(天平15)年に「大仏建立の詔」が発せられ、752(天平勝宝4)年にインドの僧菩提僊那(ぼだいせんな)によって開眼供養の儀式が執り行われた。 当時の大仏は黄金(金メッキ)で施されていた。しかし1180(治承4)年の治承・寿永の乱の際、平重衡の南都焼討により、大仏殿ごと焼けてしまう。その後、重源や陳和卿などの協力で再興される。 が、またしても焼討がある。1567(永禄10)年、松永久秀の焼討によるものである。戦国時代という時代背景もなってなかなか復興ができず、その間胴体と首が分離されたままであった。江戸期に入り復興され、現在に至る。 補足なのに余談だが、「目から鼻に抜ける」という言葉は東大寺の大仏から生まれた言葉である。 そろそろ本題に戻す。東大寺は大仏殿だけではない。皆さんご存知の正倉院や春の訪れを告げるお水取りで有名な二月堂などさまざまなお堂が存在する。今日はそれらのお堂をすべて回った。お堂に間それぞれ仏像が安置されている。中には秘仏のものもなりすべて見ることができなかった。今回見ることのできた仏像は、悠久の時を越えて今も大切に安置されており、奥ゆかしさと尊さを窺い知ることとができた。 大仏はメインかもしれないが、一度回りも見てみることで違った何かを見つけることができる。それは観光だけではなく、日ごろの生活で応用できることではないだろうか。私はそのように思う。 <今日の一枚> ↑東大寺大仏殿 |
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2008 06,23 22:17 |
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今日は月曜日。また新しい一週間が始まった。 |
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2008 06,04 23:45 |
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最近どこかに行く計画は立つものの天候に左右され続けているさすらい旅人です・・・ |
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2008 03,12 18:50 |
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(昨日書くつもりでいたblogです。内容は3月11日のものです)
「不連続シリーズ:川を渡るの姉妹版」をついに作ってしまった 不連続シリーズ:通りを歩く 第一弾の今日は、淀屋橋から御堂筋・本町通・谷町筋を経由して谷町四丁目に向かいます。 今日は淀屋橋で会社説明会があった。終わったのが12時30分。火曜日ということもあって週刊誌を買うことに。都合よく淀屋橋駅構内に本屋があったのでここで購入することに。その後、普通なら地下鉄に乗って帰るのだが、ぽかぽかした春の陽気に誘われ、途中まで歩くことにした。 この時期、御堂筋の並木は枯れている。そのおかげでビルがきれいに見える。あいにくカメラを持参していなかったので皆さんにお伝えすることができない。御堂筋は名の通り「御堂」が道沿いにあることに由来する。本町あたりに本願寺(浄土真宗)のお寺がある。北御堂と南御堂である。その2つの御堂から御堂筋という名がついた。京都の東西の本願寺に比べてとちっさなものだが、都会にあるお寺としては大きいものである。 その御堂筋を淀屋橋から南下する。両脇はオフィスビルが立ち並び、スーツ姿の人々が行きかう。なんとも活気にあふれた町である。御堂筋は、南一方通行で道幅も広い。車は一方を向かって悠然と流れていく。そんな御堂筋を歩くだけでなんだかわくわくする。高校時代、A君とseries500さんと3人で梅だからなんばまで歩いたことを思い出した。そのときは、A君が日銀大阪支店の写真を撮って、骨君に「今アメリカにおる」とからかったメールを送ったことを思い出した。今となってはケータイで国際電話は普通であるが、あの当時はできる機種はほんの数種だった。そんな思い出のある御堂筋である。 淀屋橋を出発して10分ほどで、本町3の交差点に到着する。ここからで御堂筋とお別れして、進路を東に向ける。本町通に入り東に進む。本町通は御堂筋と比べて道幅が狭い。大阪は碁盤の目の用に道が走っている。これは京都と同じである。歴史的には条坊制といい、日本で始めて条坊制を取り入れたのは、奈良県中部にあった藤原京からである。これは唐の国長安をモデルにしたもので、その後の日本の都市計画の見本となった。大阪は条坊制とは言わない。それは都が置かれなかったからだ。厳密に言うと、都が置かれたときには条坊制はなかった。現在の碁盤の目のような道は、太閤秀吉公が基礎を作り、徳川家康(江戸幕府)が作り上げたことになる。 そんな大阪にはたくさんの通りがある。京都にようにひとつずつ通り名はないが、ひとつだけ京都と違うことがある。それは「通りの名前で東西・南北」がわかることである。大阪は南北に走る通りには「筋」という名をつける。東西には「通」とつける。例として御堂筋・堺筋・松屋町筋・谷町筋は南北に走り、土佐堀通・本町通・長堀通・千日前通は東西を走っている。 そんな本町通は御堂筋と違って建物の大きさがまばらになる。歩道も狭くなる。しかし歩行者は多い。本町3の交差点から少し歩くと本町1の交差点にたどり着く。ここは堺筋と本町通がクロスする。これといったものはないが、堺筋の下には地下鉄が走っている。加えるならば、堺筋を南下すれば、聖地と称されるところにたどり着く。そんな堺筋を通過し次の通りにさしかかる。 内本町2の交差点では、松屋町筋とクロスをする。大阪人は発音しにくいせいか「まっちゃまち筋」と読んでいる。この松屋町筋はシーズナリー商品を売るお店が建ち並ぶ通りである。通りの名前の由来になっている松屋町界隈では、雛人形・五月人形・花火・クリスマスツリーといった季節ごとに商品を買えていっている。中には駄菓子の問屋なども見受けられる。その松屋町を過ぎ下寺あたりを過ぎると、いっきにバイクの店が増える。通称バイクロードといわれ、通りの両脇に十数件の店が立ち並ぶ。ドンつきは国道25号線である。国道25号線は始まりが、梅田新道で御堂筋を経由し大国町あたりで東進、その後四天王寺・八尾・柏原を通り王寺・天理・・・というふうに有名どころを通過した後、最後は三重県四日市市までいたる。 以上は余談である。松屋町筋を過ぎ、本町通を過ぎると道はにわかに坂道となってくる。今は都市開発が進み昔の面影がなくなってしまったが、大阪には上町台地という台地が南北にある。この影響で坂道となっている。坂を上るとそこは谷町筋である。谷町筋は上町台地の谷を走っていることから名づけられ、谷六あたりには多くのお寺が点在している。 このたびも終盤に差し掛かり、地下鉄に乗って帰るために谷町筋を南進。少し行った谷町四丁目から地下鉄に乗り込み帰路につく。 これからもまた多くの場所に就職活動で訪れることになる。そこで見つけた歴史や・地域の特性・町並みを考察としてblogに載せて行きたい。内容はさほどですが皆さんお付き合いのほどを・・・ |
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2008 03,06 19:24 |
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不連続シリーズ:川を渡る
第二弾の今日は「近々大学に立ち寄ることはないですか??」と半ば強制のメールが大学から来たので、木津川を渡り、大学に行きます。 先ほども述べたように大学から登山命令(←大学の地形上あえて登山と言っておきます)が下された。今日は京都で説明会があるので、ついでと言っちゃあおかしいが大学に行くことに決めた。 大学に行く方法として選択肢がいくつかある。私は、幼少期より近鉄ばかり乗っていたので、大学へ通うのに大和西大寺経由近鉄京都線を利用している。近鉄京都線(以下京都線)は大和西大寺駅~京都駅までの間にいくつかの川を渡る。北から鴨川・琵琶湖疎水・宇治川・木津川などである。今回は一番奈良寄りに近い「木津川」にスポットをあてたい。 木津川の源流は三重の名張辺りである。川の名は地名をとって名張川。赤目四十八滝も源流のひとつである。源流は当然川上にあるため水は清らかである。この辺りには天然記念物の「オオサンショウウオ」が生息している。 そんな源流から流れ出た川は伊賀市内を通り、国道163号線(伊賀街道)と平行して加茂に入る。加茂の辺りからは木津川と名は変わっている。加茂あたりは夏になると川遊びやキャンプ客で賑わう。国道163号線には年中、工場車両やトラックが行き交う。そんな加茂は鉄にとって要所ではないだろうか。 加茂は関西本線に属し、加茂から大阪方は電化区間。名古屋方は非電化区間となっている。当然電車は名古屋方面に行けず、加茂からディーゼル車となる。2006年3月上旬まで1日1往復名古屋~奈良間でディーゼル車の「急行かすが」が運行されていた。しかし今となっては昔の話である。 そんな加茂を抜け、平成の大合併で誕生した木津川市に入る。ここでは木津と呼んでおこう。木津は川の名前と同じ街である。街の名前は奈良時代まで遡る。710年に遷都された平城京。造営にあたり多くの木材を木津川を経由し、木津辺りで陸路に切り替え奈良に運んだ。木材の港から「木津」という名がついた。 そんな由来を持つ知名のそばを流れる川。木津川市を過ぎると流れは北に向かう。川を平行して今度は片町線(JR学研都市線)が走る。近鉄京都線とは木津川台~新田辺のあたりまで並行して走っている。川は京田辺市に入り再び進路を西に戻す。戻すとすぐに近鉄京都線の木津川橋梁が川を跨ぐ。かつてこの端の南側に駅があった。川の名前を取って木津川駅である。よく似た名前に木津川台という駅があるが、これは木津川市内の駅である。(注1) 木津川駅はそばに流れる川で遊ぶために作られた駅と私は聞いている。高度成長期の1974年に廃止となった。私が考察するに娯楽の向上や川の汚れが原因で川遊びができなくなったのではないかと考える。今わ影も形もなく、新田辺~富野荘間の区間が長いことが駅のあった名残だろうか・・・ 木津川橋梁をこえると川は再び北上する。途中、2時間ドラマでよく撮影が行われる「木津川の流れ橋」がある。一度行ってみたいのだが電車でのアクセス方法がかなり悪く、いつも行こうと計画するが頓挫してしまう。個人にオススメするのが、新田辺(または京田辺)から川沿いに歩き、流れ橋を渡り富野荘に向かうコースである。一度行ってみてはどうだろうか。結構距離ありますので夏場は水分補給を!! 流れ橋を挟んで高架橋が2つ見える。国道24号線のバイパス機能を果たす「京奈和自動車道」と国道1号線のバイパス機能を果たす「第二京阪道路」である。後者は、最近できた阪神高速8号京都線とつながっており、将来的には近畿自動車道に接続される。全通した場合は、近畿自動車道門真市付近から京都市内油小路通りまで行ける事になる。 そんな高架橋を過ぎると、昨日考察した淀川と合流する。はじめに宇治川と合流し、その後桂川と合流する。そして淀川と名を変える。 今日も不連続シリーズ「川を渡る」をお伝えした。歴史考察といいつつ、鉄のにおいがするblogとなってしまった。今度はいつするかわからないが、今度川を渡ったときに考察を行うことにする。乞うご期待しないでね(笑) 注1)木津川台駅と木津川駅について・・・近鉄京都線 大和西大寺・・・(省略)・・・山田川-木津川台-新祝園・・・(省略)・・・新田辺-木津川-富野荘・・・(省略)・・・京都 木津川:現在は廃止。面影なし 木津川台:京都線内で最も新しい駅。そばに近鉄が造営した木津川台という住宅地があるが、直接向かうバスはない。もっぱら手前の山田川からである。 |
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2008 03,05 13:52 |
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不連続シリーズ「川を渡る」
第一弾の今日は淀川を渡り、新大阪のテストセンターに向かいます。 朝から本町付近で説明会に参加する。説明会と言っても、社員さん達との座談会のようなものです… そのあと新大阪のテストセンターに向かう。(テストセンターのことは触れないことにします・・・)不連続シリーズ「川を渡る」という事なので川に触れたい。 御堂筋線に乗って、千里中央方面に向かい中津を出ると電車は地上に出る。御堂筋線は新御堂筋(国道423号線)に挟まれて淀川を渡る。進行方向右手(東側)にはJRの淀川橋梁が見える。撮り鉄にとっては淀川橋梁は格好のポイントである。 淀川は滋賀の琵琶湖瀬田付近から流れ出し、瀬田川となる。京都府に入り、宇治川と名を変える。伏見で鴨川・琵琶湖疎水と合流し、桂で桂川と合流した後淀川と名を変える。山崎を越えると大阪府に入る。明治初頭まで淀川河口・堂島付近から伏見に向けて舟が行き交った。しかし、京街道沿いに京阪電鉄が開通し、舟業は衰退していった。舟業の繁栄は伏見地区に面影が残る。伏見には舟着き場のあとを公園としている。伏見港公園である。他には書物に様々な記載が残っている。 一方で京街道の方も守口市内に繁栄の面影が残る。一度じっくり訪れたい。 このようにして突如始まった不連続シリーズ「川を渡る」今後とも続けて行きたい。 <今後の計画> 姉妹版:「山を越える」開始 取り上げる地域:淀川水系・大和川水系 (はじめ更新したものと若干内容が異なります。ご了承ください) |
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